古典菊が見ごろです<2022-11>

2022年11月7日

伝統園芸植物のひとつである菊は、現在、中輪菊あるいは「古典菊」とよばれています。いずれも18世紀から19世紀前半に作出された地方独特の花形をした菊で、作出当時の花形を今日まで200年以上も維持・継承している点で貴重です。

種類や産地、栽培の特徴、観賞方法

江戸菊
 江戸菊は、18世紀の終わりから19世紀前半(1804~1830)にかけて、江戸で飛躍的に発達したもので、当時の江戸ではキクといえばこの江戸菊のことを指したといわれています。19世紀初めからは実生による改良がさかんに行われて、19世紀半ばの『正菊銘鑑』には457種の花名が列記されています。
 江戸菊は、長い間「江戸の正菊」や「狂い菊」「抱え菊」「芸菊」「中菊」など多くの名でよばれていましたが、丹羽鼎三によって「江戸菊」に統一されました。1880年に始まった宮中の観菊会にも、数立て大作り(千輪仕立ての先駆型)や篠立て作りなどが展示されたほか、20世紀初めまでの東京の菊花展には欠かせない存在でした。  1930年代以降は、大菊栽培がさかんになり、年々栽培が減少し、今では菊花展であまり見られなくなっています。
 また、江戸菊は篠山藩(兵庫県)へも伝わり「お苗菊」として現在まで愛好家の間で保存・継承されています。

◆お苗菊
 江戸時代から伝わる丹波篠山特有の「門外不出」とされていた中菊のことで、旧篠山藩青山第五代藩主青山忠良公が天保・弘化の時代(1840年頃)将軍から拝領し、家臣に下賜、栽培させたと伝えられています。
 江戸時代、日本で独自の発展をした古典園芸植物(古典菊)の系統を今も伝え、篠山附近でのみ愛育されています。その特徴は一度満開になった花弁が踊っているように変化して巻き上る(抱える)という妙味を見せる誠に雅趣に富む品種で、開花から約1ヶ月間、その踊り(三態:咲き開き・抱えはじめ・抱え)を楽しむことができます。
 昭和の初期その一部がときの宮内省に献納されて「篠山中菊」と命名され「新宿御苑」に異彩を放った事もあります。
 戦時中、多くの品種が絶えてしまいましたが愛育家が今も残る21種類のお苗菊を160年以上の伝統を受け継ぎ篠山地方特有の菊として伝えています。

<その他の産地>

◇嵯峨菊(京都府嵯峨地方) ◇伊勢菊(三重県松阪地方) ◇奥州菊(青森県八戸地方) 
◇肥後菊(熊本県) ◇丁子菊(関西地方)


【菊園芸の発達】 

 日本でなじみ深い菊は、奈良時代末から平安時代初めごろに中国からもたらされたといわれています。中国では、薬用として扱われ、長寿を祝う「重陽の節句」(陰暦9月9日)に、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲む習わしがあり、当初、中国の影響から日本の朝廷で親しまれました。
 宮廷貴族や武家社会でもてはやされていた菊が庶民の手に渡ったのは、16世紀初め(室町時代)といわれています。実際に庶民の間に菊栽培が広まったのは、さらに200年近くたった18世紀に入ってからで、それから約50年の間に空前の発達をとげました。今日見られる菊の系統は、ほとんどがこの年代につくられたものです。半世紀という短い間に、中国の菊をはるかにしのぐ、驚異的ともいえる発達をとげたのは、庶民の生活が比較的安定していたことと、この時代に盛行した菊大会が大きな影響を及ぼしたことは間違いありません。
 最初に菊大会(菊合わせ、闘花)が開かれたのは、元禄時代初めごろ(1680年代末)といわれています。その後1710年代に入ると、京都の円山や東山を中心に大菊の菊合わせがさかんに開かれ、同年に江戸でも菊大会が開かれました。また、このころは菊花狂騒時代ともいわれ、菊大会で入賞した新花の苗1本が1両(約5万円)から3両3分(約19万円)という値段がつけられるなど、菊大会が投機的な場となり、新花奇種の作出をねらって多くの人が実生(みしょう)に熱中し、多数の新花が作出されました。
 元禄時代に端を発した「キク・ブーム」は幕末の政争で一時とぎれましたが、その後明治13(1880)年に宮中の観菊会(初めは菊花拝観といいました)が始まったのを契機に菊作りが再興されました。
 

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